仕組まれた自由のなかで(3)

仮面舞踏会 2011年3月の東日本大震災のときもそうでした。

「津波がついそこまで来ている」というのに、車の渋滞の列に並び続ける人々、震災後に不足したガソリンや水を買い求めるために、静かに待つ人々。
 そんな日本人の非常時の行動については、今年2月、このブログ「雪の日に思う(3)」にも書きましたが、暴動化してもおかしくない状況でも、節度を守って行動する日本人の姿は、「遠慮深く慎み深い」と、海外メディアでも驚きと感嘆を持って表されていました。

 ハロウィーンのときには、世界各地から来日する人がいるほど大規模化するお祭り騒ぎを繰り広げる日本人と命の危機にさらされたときにさえ慎み深く行動する日本人。

 この両極端ともいえる状態をいったいどんなふうに考えればいいのでしょう。

スプリットされた日本人

 何も私は、「いったいどちらが日本人の本当の姿なのか」などという疑問を投げかけるつもりはありません。
 どちらも日本人の国民性のなかに同居していて、どちらも日本人の特質を現しているのだとは思います。

 気になるのは、そのスプリットされた状態です。

「仕組まれた自由のなかで(1)」で書いたように、「倫理・道徳を失わせる」「風紀を乱す」などの理由で戒められた仮面舞踏会に狂喜乱舞した王侯貴族たちは、普段は紳士淑女然として振る舞い、仮面をかぶると別人のように破廉恥な振る舞いに酔いしれました。そこにはきっと極端に抑圧された欲求、押さえ込まれた自己が存在したことでしょう。

「こうしなければならぬ」「あれをしてはいけない」という社会の掟、世間のルールにがんじがらめにされ、存在することさえ許されなかった欲望が、王侯貴族たちのなかに渦巻いていたに違いありません。

日本人の防衛手段?

 そうした歴史の事実、仮面が人にもたらす影響を考えてみたとき、今の日本人のスプリット(分裂)した状態は、社会の規範が強まり、「真の自己」を隠すどころか、「真の自己」を否定して、「偽りの自己」として生きることを強いられた人々が、そんな現実から目をそらすための防衛手段のようにも見えます。