感情を失った時代(3/10)

2018年1月31日

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しかし、学校や体罰を行った顧問、教育委員会に責任を負わせれば体罰事件は解決するのでしょうか?

桜宮高校では、その後バレー部顧問による体罰も報道され(『朝日新聞』2013年1月10日)、記事では同校の校長が「今後は体罰を一掃するため、部活動の顧問以外に悩みを相談できる窓口の設置などをあげた」と書かれていますが、こうした窓口があれば体罰は無くなるのでしょうか?

答えは「否」だと思います。

なぜだれも救えなかったのか

同事件をめぐる報道を見ていると、自殺した生徒は友達や母親などに体罰を受けたことを話しています。また、顧問が体罰を行っていることをほかの教師や校長も把握していたとの話も出ています。

つまり、「窓口」はなくても、生徒は最も身近にいるおとなたちに自分の窮状を訴えていたし、周囲のおとなも生徒の危機的状況を認識していたわけです。

それにもかかわらず、だれも生徒を救うことはできませんでした。いったいなぜ、だれも生徒の死を止められなかったのでしょうか。

どうして生徒の周囲にいるおとなは体罰を目撃したり、「今日も殴られた」と語る生徒に対して、「そこまでして部活を続ける必要なんてない!」「生徒にそんな思いまでさせて強いチームにならなくていい!」と言ってあげることができなかったのでしょうか。

顧問は暴力を使ってまで強くなることに固執しなければならず、生徒は自殺をする前に「部活を辞める」という選択をなぜできなかったのでしょうか。

もし自分なら声を上げられたか?

私はけっして「母親にも責任がある」とか「生徒自身にも落ち度がある」などと言うつもりはありません。

ただ、だれかを悪者にしたり、顧問だけを責任追及して終わりにするのではなく、「どうしてだれひとり、『ここまでして強くなろうとするのはおかしい』と声を上げることができなかったのか」を考えたいと思っているのです。

「辛い」とか「恐い」とか「ひどい」などの感情を封じ込め、結果的に体罰を容認し続けてしまったのはどうしてなのか。
そして、もし自分だったら、同じ環境の下で体罰を止めるよう声を上げることができたのか。

その問いの向こうにこそ、私たちの社会が体罰を根絶できない理由があると思うからです。(続く…