感情を失った時代(1/10)

2018年1月31日

大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将の男子生徒が、顧問の男性教諭から体罰を受けた翌日に自殺した事件が話題になっています。

この事件を受け、文部科学省は全国の教育委員会などに体罰の実態調査実施を指示するとともに体罰を行った教員らへの厳正な対応を求める通知を出しました。

マスコミは連日、体罰に反対する評論家やコメンテーターの意見を報道。かつては体罰容認派であった大阪市の橋下市長も、亡くなった生徒の家を訪ねて遺族に謝罪し、その後の記者会見で「考え方を改めないといけない。反省している」と述べるなど(『東京新聞』2013年1月13日)、「体罰禁止」の声が高まっています。

一定条件下での体罰は必要?

こうした中、「それでも体罰は必要」と言う勇気ある意見を見つけました。「一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる」(『産経新聞』産経新聞 1月27日)。

個人的には、同記事の執筆者にはまったく共感できませんが、「なぜ体罰が無くならないのか」を考える上ではとても参考になるのではないかと思いますので、ご興味のある方は、ぜひサイトをご参照ください。

今の世論の流れを見て「今は体罰容認の発言は控えよう」と思っている政治家や識者の方々の中には、この記事の執筆者のような考えの持ち主が多くいるのではないでしょうか。

執筆者は「ケガをさせない」とか、「1発だけに限る」などの条件下で、「ねじれた心を正すため」の体罰は必要だと述べています。そうした部分にもいろいろと突っ込みどころはありますが、何よりもまず子どもの問題行動を「ねじれた心によるもの」と思うところに、すでに大きな間違いがあります。

子どもには暴力を見分ける力がある

うまく言葉に出来ないから、本当は分かって欲しいから、さまざまな問題行動というかたちで子どもはメッセージを発します。それを「ねじれた心を持っている」と判断し、力で押さえつけようとするおとななど、子どもが信頼できるはずがないではありませんか。

弱い立場に置かれた子どもという存在は、自分への愛情が高まってほんとうにごくごくまれに“思わず”手が出てしまったのか、おとなの価値観を押しつけるために“おとなの都合”で暴力を使っているのかを瞬時に見分ける能力を備えています。(続く…