少年事件と虐待(6/6)

2018年2月5日

このシリーズの最初の記事へ

私たちの社会は、「親は子どもを愛するもの」という幻想を抱いています。
もし、そこに疑いを抱いてしまったら最後。多くの人が「自分の親も無償の愛を注いでくれた人ではなかった」という現実に直面しなければならなくなってしまうからです。

多くの人が自らの感情にはふたをして「いろいろ辛いこともあったけれど、親は自分のことを思ってくれていたんだ」と、自らを納得させます。そうして、かつて親が自分にした残酷な仕打ちは「なかったこと」あるいは「ありがたいもの」にして、親と同じように子どもに接します。

だから、子どもが親や社会への反抗とも取れる事件を起こしたりすると、

「親は出来る範囲で、その親なりに子どもを愛してきていたのに、愛を感じられない子どもの方にこそ問題がある」

と、子どもを責めます。

心理の専門家のなかにも、事件を起こした少年たちに対して「(親に)愛があるのに、子どもに届いていない」などと言う人もいます。

===
大切なのは「子どもの視線」に立ったかかわり

はたしてそうでしょうか?

仕事に疲れた親が子どもの声を無視してしまうとき、子どもの将来を考えて勉強を強要するとき、世間で通用する良い子にしようとして暴力をふるうとき・・・親は子どもを愛しているのでしょうか?

そうしたやり方でしか子どもへの思いを伝えられない親にではなく、その愛を受け取る感受性がない子どもの方に問題があるのでしょうか?

確かに、親の側にも大変な事情はあるでしょう。疲れていたり、将来への不安があったり、世間のプレッシャーを感じていたりして、うまく子どもと向き合えない現実もあるとは思います。

しかし、だからといってこうした親の振る舞いを「愛情あっての行為」と呼んでしまうことには抵抗を覚えます。

子どもの成長を促すのは「おとなの都合」を強要するのではなく、「子どもの視線」に立ったかかわりのはずです。

学齢期前からの道徳教育

ところが、今度は、今まで以上に小さな子どもたちを「おとなの都合」に合わせるための施策が始まっています。
昨今の子どもたちの状況に業を煮やした政府は、幼稚園教育要領を改定し、学齢期前からの道徳教育を強化しました。

今までの幼稚園要領では、
「相手の気持ちに気づくことで、子どもが自分の気持ちたり調整したりできるようになる」
ことを目指してきました。対して改定版では、まず
「きまりは絶対なもの」
という大前提に立って、
「それを守らせるためには自分の気持ちを抑えて相手と折り合いをつけなくてはならないとの意識を育てる」
ことを目指すというのです。

それでなくとも幼稚園か保育園いずれかの低い設置基準に基づいて設置ができる認定こども園ができ、小学校に入学後、教師の言うことにおとなしく従えない子どもの問題(小一プロブレム)などが言われる中で、幼小連携が進んでいます。

従来から行われきた子どもの思いや感じ方を大切にする内容ではなく、政府の方針に合わせた保育・子育てを実現する仕組みが着々とつくられているのです。

小さな頃からきまりを押しつけられ、おとな社会に合わせて振る舞うよう強いられた子どもは、今よりももっと、自分の思いや願いを素直に表現することができなくなるでしょう。
いつでも親の顔色をうかがい、自分を殺し、ルールに従おうと頑張ったあげくに疲れ果て、親や社会、もしくは自分を破壊するところにまで追い込まれる子どもが増えるだけです。

子どもをそんなところへと追い込む関わり方は虐待(不適切な養育)と呼ばれてしかるべきです。