少年事件と虐待(5/6)

2018年2月5日

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子どもにとって、親は神に等しい絶対的な存在です。

人間の赤ちゃんは「生理的早産」とも呼ばれるほど、とても未熟な状態で産まれてきます。
たとえば人間以外のほ乳類の赤ちゃんの多くは、産まれた直後から自分の足で立つことができます。
そして、生後1年もたてば、自らの空腹を満たす術も身につけます。

ところが人間の赤ちゃんはそうではありません。産まれた直後に立つなんてもってのほか。食事も排泄も、外界から身を守ることも何一つ、自分一人ではできません。生きていくために不可欠なことのすべてをだれかに頼らなければ1日たりとも生きてはいけないのです。

しかも、今、何をして欲しいのか、何を必要としているのか、自分がどんな状態なのか・・・それらを伝えるための手段は「泣く」ということだけです。
赤ちゃんは、その泣き声から、自らが必要としていることをくみ取り、かなえてくれるだれかに頼らなければ生き延びることはできません。

さらに成長し、立てるようになってからも、自らの力で生きていくための能力を手に入れるまでには、10年以上もの長い年月がかかります。その間、子どもの毎日、人生、未来はすべて親(養育者)に握られています。

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親に愛してもらえないということは死を意味する

だから人間の子どもは、親(養育者)の愛を得ようと必死になります。親に愛してもらえない、親が顔を向けてくれないということは死を意味するからです。

こうした事実を踏まえたとき、「愛を感じられなかった」と語るA子さんのストーリーは重みを増します。
10代半ばで「人の顔色を見て生きることに疲れた。すべてを終わりにしたかった」と、家族殺人を思いついた中学生の想像を絶する痛みも、伝わってきます。

自分を偽ってでも愛されたかった親。何ものにも代え難いほどに大好きな親。そんな親から「逃げ出さなければ死んでしまう」と思ったA子さん。家族全員を殺して「すべてを終わりにしたかった」という中学生。彼女たちの辛さ、切なさはどれほど大きなものだったでしょう。

「親の目線」に立ってしまいがちな虐待

虐待を論じるとき、私たちはしばしば「親の目線」に立ってしまいがちです。
「子どもがどんなふうに感じていたか」より「親がどんなつもりでその行為をしていたか」に注目してしまうのです。

だから「しつけだと思って」子どもを殺してしまったり、暴力をふるうなどの極端な例だけを虐待(不適切な養育)だと思い、A子さんたちのようなケースが当てはまるかもしれないとは、まるで考えません。

端的に表しているのは、少年審判です。

2006年6月に高校1年生(当時)の長男が、「テストの点数が悪かったことがばれたら父親に殺される」と思い、自宅に放火し、義母や弟妹などを結果的に殺害するという事件がありました。世に言う「奈良放火事件」(『奈良放火事件から考える』参照)です。

この少年に対しては、世間も裁判官も同情的でした。少年の同級生の保護者らが呼びかけて嘆願書が集められ、裁判長は「保護処分」の決定をしました。
父親からの暴力が明らかだったため、裁判長は「正当なしつけの限度を超えた虐待というべきもの」と判断したようです。

一方、奈良放火事件のちょうど1年ほど前に「板橋区管理人夫妻殺害事件」は違いました。事件を起こした高校1年生(当時)が、必ずしも殴る蹴るなどの暴力を受けていたわけではなかったため、両親の対応は「虐待に当たらない」と判断されたのです。
この少年に対して裁判長は「それでも親はあなたを愛していた。そのことを分かってほしい」と説教し、懲役12年を言い渡しました(『家族はこわい』参照)。(続く…