少年事件と虐待(2/6)

2018年2月5日

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万が一、少年事件の容疑者が自分と同じ側にいる“普通の人”なんていうことになったら一大事です。

特殊な病気や障害のせいにできないのですから、理にかなった原因があると考えなければいけなくなります。「問題行動」という言語化できなかった子どものメッセージをきちんとくみ取る必要に迫られます。

これは思いの外、大変です。
当の子ども自身、自分の行動の裏にある真意に気づいていないことが多々あります。

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少年の心の闇

子どもはおとな以上に、自分の感情や欲求をうまく言葉で表すことができません。だから今、自分ができる唯一の方法で、自分の思いや願いを伝えようとします。赤ちゃんであれば大声を上げて泣いて、幼児であればちょっとすねたように無言になって、思春期であれば反抗的な態度で・・・というように。

こうした言語化されないメッセージは、おとなには受け入れがたいことがしばしばあります。おとなからすると挑戦的で生意気な態度だったり、「非行」としか思えない行動であることもあります。

声にならない子どものメッセージは、おとなの側に「子どもの気持ちに寄り添いたい」という思いがなければ、その真意は聞き取ることはできないのです。

少年事件が起こるとよく使われる「心の闇」という表現を原宿カウンセリングセンターの信田さよ子所長はこんなふうに批判しています。

「『少年の心の闇』という言葉があります。私はこれほどこっけいな言葉はないと思います。少年の心に闇などないと思うからです。それは周囲のおとな、とくに親が子どもを理解不能と思っているだけの話なのです」(『子どもの生きづらさと親子関係』16ページ/大月書店)

「非行」というメッセージ

私は「(父親が亡くなった後に)嘆き悲しむ母親の姿を見ていたくなくて」と、男性の家を泊まり歩いた子どもを知っています。だれもが足を止めるド派手な格好で追い出された里親家庭の周りをうろついていた子どもや、「だれかに話を聞いて欲しくて」万引きを繰り返した子どもを知っています。

表面的に見れば、彼/彼女らの取った行動はいわゆる「非行」です。しかし、その行動の裏にあるのは、「私のことをちゃんと見て欲しい」「私のことをきちんと愛して欲しい」という切ないまでの思いに他なりません。

しかし、親を殺すところまで追い詰められた子どもやその親子関係について「とくに問題はなかった」と語る人たちは、そんなふうには思いません。
あくまでも問題があったのはその子どもであって、子どもをめぐる環境や関係性に問題があったと思おうとはしないのです。

子どもを操るおとなの仕草

こうしたおとなは、子どものさまざまなメッセージを理解できず、そのサインを無視します。当然、子どもの行動化は進みますが、おとな側はさらに大きな力で子どものメッセージを葬り去ろうと躍起になり、「しつけ」と称して子どもを矯正し、自分たちにとって都合のいい子どもにつくり変えようとします。

そのために取られる方法は、何も殴る蹴る暴力や、食事を与えないネグレクトなど分かりやすい虐待に限りません。
悲しげにうつむいた横顔や、失望を含んだまなざし、小さなため息があれば十分です。

こうしたおとなの、わずかな仕草から子どもは「期待されていること」を読み取り、「自分は何をすべきか」を推測します。そして、子ども自身気づかないうちに、おとなの望むように振る舞い始めます。

おとなに愛され、世話をされなければ生きていけない子どもを意のままに操ることは、おとなが思っている以上にとても簡単なのです。(続く…