絶望と自殺(1/6)

2018年2月5日

ギリシャ神話に登場する人物にシーシュポスという人がいます。
彼は、その犯した罪により神々から、「巨大な岩を山のふもとから頂上まで転がして運ぶ」という罰を与えられます。
彼が苦労して運び上げた巨石は、あと少しで山頂に届くというところで底まで転がり落ちてしまいます。そのため、彼は再びこの巨石を一から運び上げる作業をしなければなりません。

永遠に繰り返される作業。先の見えない、終わりのない孤独な労働。・・・それが、シーシュポスに与えられた罰でした。
このことから「シシュポスの岩」は「(果てしない)徒労」を意味します。

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圧倒的な絶望感

私がこの神話を知ったのはフランスの作家・カミュの『シーシュポスの神話』を読んだ学生時代でした。
人間存在の不条理をテーマにしたノーベル文学賞作家であるカミュが描いたものですから、当然なのかもしれませんが、読んだときの圧倒的な絶望感が忘れません。今も思い出すたびに、舌がざらつくような、胸が押さえつけられるような不快感を感じます。

ところが嫌なことに、ここ数年、この神話を思い出す機会がたくさんあります。
「非正規雇用」、「死刑・自殺願望」、「過労自殺」、「格差」・・・そんなキーワードが新聞紙面を賑わしているからでしょうか。
それとも、こうした暗いニュースに対し、「頑張った人が報われる社会」「再チャレンジ」「自己責任」「痛みをともなう改革」などの言葉を返す人々がいるからでしょうか。

生まれたから生きていくだけ

つい最近もありました。
『東京新聞』の「読者交論」のコーナーで、18歳の学生が自殺について述べた意見への会社員の反論を読んだときです。

学生は「生きていればいつか良いことがある」「死ぬ気があれば何でもできる」と精神論を唱え、自殺した人を愚かであるかのように論ずる人々を批判しています。
そして、最近、再会した中学時代の友人(運動部で活躍していた)が、最初に言った言葉が「仕事場までの電車賃がない。頼むから百円貸してくれ」だったことや、自身がクラスメートに制裁を受けたときの体験から「死んでみたくなる」人に共感しています。

これに対して会社員は「甘えている」「努力したのか」との意見を述べ、「生きることに意味はない。生まれたから生きていくだけ」という主旨の言葉で締めくくっていました。
まるで「生きていることに意味を見いだせないのは本人の責任だ」と言わんばかりです。

希望がなければ生きていけない

「生まれたから生きていくだけ」
その意見には私も大枠で賛成です。でも、だからこそ、「生きている意味」を探し出せるような環境が必要だと思います。

人は希望がなければ生きてはいけません。シーシュポスのように、たったひとり、終わりのない苦しみに立ち向かう毎日に耐えられる人間などいないのです。
人が希望を持つためには、何かを成し遂げる支えになるための人との関わりや、自分の痛みに共感してくれる他者の存在が不可欠だと思います。

もし、シーシュポスに、共に巨石を運んでくれるパートナーがいたとしたら、無意味な労働の中にも、わずかな喜びを見いだす可能性があったかもしれません。一見、徒労にしか見えない作業でも、パートナーと過ごす時間そのものが楽しみになることもありえたでしょう。(続く…