子どもが危ない(6/6)

2018年2月5日

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image061101.jpg 子どもは、おとなと違って白昼夢を見ます。たとえばスーパーマンに変身し「父に殴られる母」を守ったり、守護神をつくって「怒ってばかりいる母」から自分を守るなど、自分だけの安全な場所で空想にひたることで現実の恐怖を乗り越え、辛い出来事を慰めたりするのです。

そうやって「だれにも侵されない自分の世界」を積み重ね、自分らしい価値観をつくることは、やがて自分の足で立ち、世の中に流されずに生きる土台をつくります。


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いつもおとなに見られていると、社会の価値を体現した“おとなの目”を過度に取り込んでしまうこともあります。心理学的に表現すれば、「超自我やインナーマザーが肥大化する」と言ってもいいかもしれません。
そうなると、いつでもおとな(社会)の期待を推測し、その期待に応えようと必要以上に頑張ってしまうことになります。「もっと頑張らねば」「こんな自分ではいけない」と、自分を責め、期待に応えられない自分に罪悪感を持って苦しんだりします。自分らしい価値観が育っていないので、今の自分を「ありのままでいいんだ」と認め、受け入れることなど、とうていできません。
しかも「他人は信用できない」と教えられていますから、だれかに助けを求める道も閉ざされます。ずっと守られるばかりだと自分で何かをやり遂げた自信も育たないため、とても外界へと出ていく勇気など生まれようもありません。長じては、いつまでも親に依存する人間になってしまうこともあるでしょう。

本当に子どもの身を案じるなら、子どもが生まれながらに持っている「自分を守る力」を十分に引き出してあげることこそが重要なのです。
それには「自分はかけがえのない存在なのだ」という自己肯定感をしっかりと持たせてあげることです。そのためには、継続的で安心できるおとなとの関係性(安全基地)が不可欠になります。
子どもは、いつも自分を気にかけ、自分の気持ちに寄り添い、自分の欲求に適切に応えてくれるおとな(多くの場合は両親)との関係性のなかで「自分は愛されるに価する存在だ」と感じ、「世の中は自分を受け入れてくれている」という信頼感を育て、心身を発達させます。つまり、身近にいるおとなとの人間関係によって人生を生き抜く力を獲得していくのです。
実際、「周囲の人からのサポート感が高い子どもほど、危機回避能力が高い」との調査結果もあります(大阪教育大学学校危機メンタルサポートセンターの藤田大輔教授が05年に実施した「健康と安全に関する意識調査」)。

しかし、今の日本でこのような関係性を保障できる場がどのくらいあるでしょうか。先ほど述べた通り、「家の中」は「家の外」よりもずっと危険な状態です。
「生後19日の2男に暴行、重体 18歳の母親逮捕−−水戸 /茨城」(毎日新聞 9月29日)、「同居男を殺人容疑で再逮捕=暴行認めるも殺意否認−2女児遺棄事件で北海道警」(時事通信 9月30日)、「4歳養女殴打、中国人の女逮捕=日常的に虐待か−警視庁」(時事通信 10月2日)と、3日と空けずに虐待に関するニュースが飛び込んできます。

監視が強まれば、人とのつながりはますます薄れ、孤独な人が増えていきます。自己決定と自己責任の世の中になれば、子育ての責任は親に重くのしかかります。格差社会が定着すれば、とても子どもの欲求に応えてあげる余裕のない層も生まれます。
今の日本のような社会であれば、虐待が増えるのは当たり前なのです。

そもそも監視を必要とするような新自由主義社会ーー競争と成果(利益)が重視され、情緒的なものが排除される社会ーーは、子育てになじみません。子育てとは、見返りを期待することなく、自らのエネルギーを子どもに注ぎ込む行為です。その無償の行為が、私たちにはかりしれないほどの情緒的な豊かさをもたらしてくれるのです。
ところが新自由主義社会にあっては、こうした情緒的な豊かさは「不用なもの」とされています。もっと言えば「金儲けの邪魔になるもの」とされてしまうのです。

ほんとうに子どもの安全を憂えるなら、莫大な予算は新自由主義的な社会の在り方を改め、だれもが安心して子育てできる社会をつくるために使われるべきです。人と人とのつながりを分断し、企業が入り込む隙を与えるのではなく、関係性を構築できる環境を整えるべきです。

子どもの安全を脅かしているのは見知らぬ他人などではありません。サイレント・マジョリティーとなって新自由主義社会に荷担し、人とのつながりを忘れ、実態のない不安に踊らされている、私たち自身なのです。(終わり)